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vol de nuit  サン=テグジュペリによせて

『夜間飛行』と『人間の土地』。

とても素晴らしくて、読み終えて「なぜもっと早く読まなかったのだろう」と思いました。

「夜間飛行」「人間の土地」(カバー:宮崎駿)

サン=テグジュペリといえば、『星の王子さま』が有名です。

ですが、もしも大人のあなたが『星の王子さま』を好きなら、この2書を読まないのはあまりにもったいない….と、言われたことがあります。

「愛は向き合うことではない、同じ方向をみつめることだ」など、誰しも耳にしたことのある名言の数々が「人間の土地」に詰まっていました。

空を飛ぶことが大冒険だった時代に、郵便航空の飛行士として空を舞った、サン=テグジュペリ。

これらの書はその体験に基づく物語です。

「星の王子さま」とおなじに、彼ら飛行士もまた「孤独」で、それは人間の孤独です。

されど空を愛し、空から眺める大地を愛し、人と人の繋がり、大地と人の繋がり、「義務、責任を果たすこと」に幸福を見出し、命を賭けて勇敢に空を飛ぶ。
堀内大學の訳文は、少々若い人には読み辛いかもしれません。

でもとても美しく、原文の魅力…サン=テグジュペリの詩的な世界が、ちゃんと伝わってきたので、読んで良かったと思いました。

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『夜間飛行』は、ゲランの名香の名前にもなっています。

今ほど安全でない時代に、命がけで飛行業務をこなす仲間。

“この生には解決策などないんだ。あるのはただ、前進してゆく力だけだ。その力を創造しなければならない”

たった一夜の話だけど、星降る夜空、アンデス山脈での嵐、飛行士フェビアンが方位を見失って彷徨い、地上では、支配人が思いめぐらせる情景など、…とてもリアルであるゆえに、なにか「遠い夢」を見続けているような気分になりました。

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『人間の土地』も、ほんとに良かったです。

読んでみて、宮崎駿さんなど世界中の作家たちに与えた影響の大きさを感じました。

職業の偉大さとは、おそらく、なによりもまず、人間たちを結び合わせることだ。”

ほんとうですね。なにかの作業は、なにかのための労働であるなら、なにかに反射され、その労働をとおして人と社会が繋がりをもつのです。

“真の贅沢はひとつだけしかない。それは人間関係という贅沢だ

実際にリビア砂漠に不時着し、3日後に奇跡の生還を果たしたエピソードは「星の王子さま」の原体験です。

彼と同僚の二人は、リビア砂漠の激しい乾燥が身体中の水分を蒸発させるなか、機体についた朝露をかき集め、飲んでは嘔吐し、口も食道もはりつき、お互いに「幻覚」を見続ける。

それでも前進するのは、ただひとつ「自分たちの信号がとぎれ、悲しみにくれ、探し続けて居るであろう仲間、家族=遭難者のため」。その者たちに「生きている、俺たちは生きている!」と「救援」してやりたい気持ちだけが、彼らの足を動かすのです。

“我慢しろ…ぼくらが駆けつけてやる!ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!”

彼らの中で繰り返し浮かぶ光景は、「朝のミルクとパン」「真っ白いシーツ」「我が家の窓の灯火」…飛行のあとはこれら日常のささいな光景が、たまらない幸福となる。

リビア砂漠の極限の中で、カバンの中から一個みつかったオレンジを、きっちり半分に割り、わずかな水分を分け合う姿。

“水!水よ!そなたは味も色も風味もない、そなたを定義はできない、人はただそなたを知らずそなたを味わう。

そなたは生命に必要なのではない、そなたが生命なのだ!”

水や土、それに含まれる成分である自然を粗末することは、すなわち、己を粗末にすること。人間…心臓というもっとも高性能なエンジンをもつ神秘の肉体を。

農夫が土を耕すのは、鍬や鋤のためではない。

決して命を軽んじるわけではない、けれど「ぼくは死を軽んじることを大層なことと思わない、死が責任の観念に深く根ざしていないかぎり」と言い切っています。

サン=テグジュペリの「職業」としての飛行士体験は、まだエンジンが「発動機」の時代に、たいへんな勇気のいる冒険です。

機体が破損し、遭難しては、さいご「己の心臓」というエンジンに「動け、もう一度動け」と呼びかけながら前進する。

アンデス山脈の航路、「空の裂け目」を発見しては奇跡の生還を果たす、それを繰り返しながら同僚は、また旅立つ。

彼が帰ってくるのは、いつもきまってふたたびまた出発するがためだった。

激しい「責務」を負うと同時に、「見果てぬ夢」を追い続ける。

…そんな男性たちの姿に、とても胸がしめつけられました。

単なる航空文学の先駆といってはもったいない。

サン=テグジュペリならではの「哲学」は、行動した人間ならではの冒険なのでたいへんリアルです。
また空からの町並みや、山脈で、また砂漠の中で思い出す「我が家」の光景などは、童話のように美しくて感動しました。

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これらの飛行士人生を通して生み出された『南方郵便機』『夜間飛行』『人間の土地』そして『闘う操縦士』を経て『星の王子さま』が生まれるのですが、そう思って再びこの童話を読むと、なんと味わい深いことでしょう。

『星の王子さま』の冒頭、主人公がまだ子供のころ「ゾウをのみこんだ、ボア(うわばみ)の絵」をかくと、大人たちはきまって「これは何だ?ここは何だ?これは帽子の絵か?」と、やたら質問をして否定する。

やがて大人になった主人公は、飛行士となってサハラ砂漠に不時着する。

そこで出会った小さな王子に、愛らしい声で「ヒツジの絵を描いてよ」とせがまれる。

いろいろ描くも、王子は満足しない。

そこで、四角い箱を描いて「ヒツジはこの中だ」と言うと、王子は「ボクが欲しかったヒツジはこれだよ!」と喜ぶ。

そしてその王子は、地球にあるたくさんのバラをみて、自分の星のたった1本のバラが、ただのちっぽけなバラだったことを知って落胆する。

それでもそのバラが愛しく思い出されて仕方ないのは、彼女が「バラだから」ではなく、自分が「毎日水をやり、風をよけ、語りかけたバラだったから」だったことに気づくのです。

サン=テグジュペリの世界の魅力は「地球のあちこちに隠された井戸」みたいに果てしなく、人生がサハラ砂漠のように感じたときには、オアシスのように感性を潤してくれるでしょう。
『闘う操縦士』にはこんな一文があります。


戦争は冒険ではない。戦争は病気だ。チフスのように。

そして、

わたしはいつも、傍観者が大嫌いだった。参加しないとしたら、わたしはいったい何者だろう?存在するためには参加することが必要だ。

彼は、1944年7月31日、コートダジュール沖でドイツ軍の戦闘機に撃墜され、その飛行する生涯を閉じました。

Le Petit Prince

本読んでると、かならずソウルが飛び乗ってきます。

「ぼくもよむ」

はじめ本の上にちょいちょい手を出し、わたしの顔をのぞき込んでフガフガとと鼻息かいで「生きてるか?」確認すると、わたしの投げ出す足に絡まって、じゃれたり、もたれて毛繕いして、さいごは足の甲の上にアゴのっけて寝ます。

ときおり、つま先でソウルをむにっ!と挟んだり、撫でたり(フワフワ、もこもこ、あったかくて気持ちいい)、ソウルも嫌がらずに寝ています。

たま〜にそのまま寝てしまい、寝返りうってソウルの頭に「かかと落とし」食らわせてしまい、「ンぎゃっ!」と噛まれることがあります。

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いま、サン・テグジュペリの『人間の土地』『夜間飛行』を読み始めています。

先日、大人になって久しぶりに「星の王子様」を読んだら、なんかはまってしまいました。

物語の挿絵はすべてサン・テグジュペリ自身の描いたものですが、今みてもなんとも可愛らしい。

小さな王子のかわいらしい「声」…耳元で聞こえてきそうです。

それに、王子が愛し、育て、幻滅、離別し、やがて死ぬまで思慕する「赤いバラ」…たった4つのトゲで誰をも寄せ付けない、あどけなくて美しい貴婦人のようなバラが目に浮かびます。

絵画センスもよく物語も象徴的で美しい、これは詩人か画家だろう…とはじめ読んだときは思ったけど、サン・テグジュペリの本職は「飛行士」なんですね。

飛行機が好きで、好きで、自ら志願し軍用機の操縦士になったほどの「ヒコーキ野郎」。

その体験談を元に、著作が生まれているのだから面白いです。

いま読んでる作品も、とっても面白いです。

わたしも、いちどでいいからソウルと夜空を飛んでみたいな〜。

こいつ、黒目全開でつり上げて、耳アンテナぴんっ!て立てて、興奮するだろーな。

どくしょ -3

つづきのつづき。

「ふたりの証拠」「第三の嘘」 /アゴタ・クリストフ

「悪童日記」という処女作でいきなり世界的ベストセラーを起こしたアゴタ・クリストフによる続編です。

「ふたりの証拠」では、双子の少年の名前…リュカ(LUCAS)とクラウス(CLAUS)というコトバあそびのような名前が明かされます。

引き離されると吐き気やめまいが起こるほど一心同体だった双子が別れ、ひとりは国境を越え西へ…物語は主に、東に残ったリュカのエピソードになります。

手法もガラっと変わり、「ぼくたちは」から「リュカは」となります。

大人になったリュカが、恋をしたり、子供を引き取って育てたり…物語は切ない展開になるのですが、いきなりラストで「クラウス」が登場します。
先が全くよめなくなったところで、これは終わります。

「第三の嘘」では、ベルリンの壁が崩れ再会した二人のその後(それまで)が完全に明かされます。

二人は一人だったのか?いや、たしかに二人…ではあの「日記」はいったいなんだったのか?という、まさに「フィクションの世界」が繰り広げられます。

これはこれで、とても面白かった。

同じ登場人物なのにそれぞれ「味わい」がまったく違い、読んでいてなんども翻弄されました。

そして、この2冊をたてつづけに読んでしまうほど、1作目の勢いがすごかったのだ、と思いました。

正直な感想として、「悪童日記」でガツン!ときた新鮮さ、斬新さはどんどん薄れていきました。

この続編は当初の構想ではなかったようで、「あとづけ」されたものだそうです。

「悪童日記」の、あの独特な、無国籍で、リアルでシュールな世界。
人が精神的に追いつめられると感情を「かい離」させて思考する、という心理的に緻密で、描写的にあざやかだった。

私の中では、1作目の(リュカとクラウスという)いったい実在したのかさえわからない双子の少年がいつまでも胸に残った。

どくしょ。- 2

  • 2010-07-19 (月)
  • book

とても印象的な面白さだったので、あらためて。

『悪童日記』/アゴタ・クリストフ

戦争が始まり、幼い双子の少年は、(父が出征したのち)母に連れられて「小さな街」に住む祖母の元へやってくる。

母は一人暮らしの祖母に彼らをあずけ、出て行く。

「小さな町」で、少年たちの過酷な生活がはじまる。

ハンガリー出身の女性作家アゴタ・クリストフの処女作だそうです。

舞台は第二次世界大戦時のハンガリーのようですが、作品のさいごまで、国名、地名、主人公である少年たちの名前すら出てきません。

物語は、常に「ぼくたちは」で語られ、日記のような、作文のような形式で進みます。
事実だけが記され、感情は徹底的に削られています。

「おばあちゃんは、魔女に似ている」と書くことは禁じられているが、「おばあちゃんは、魔女と呼ばれている」ことは許される。

こうしたさまざまな「ルール」は少年達が生み出すもので、身なりも落ち、労働にあけくれ満足に勉強もできない環境の中で、双子は知恵をしぼりあい、とてもユニークな方法で、互いを肉体的・精神的に鍛え上げてゆく。

厳しくて孤独なおばあちゃん。

隣に住む、貧しさと狂気の中で暮らす少女と母親。

おばあちゃんの家で間借りしている軍人さん。

神父様のお世話にやってきた、若い娘。

日記に記される大人達は、この状況下ならいそうな人たちだ。
でも彼らのピュアなフィルターは「裁き」よりも生々しく、描かれる大人たちは、まるで罪状をあばかれた罪人のようだ。

思えば私だって、毎日のように満員電車の中で小さなこぜりあいを目にしていたころは「いったい私たちの誰が100%「まとも」だと言えるのだろう」と考えた。
みんながイライラしていて、表情ひとつ変えずに痴漢している人がいたり、具合悪そうな人を目の前に立とうとしない人、ちょっと触れただけで迷惑そうに髪をふり払う女性、人の頭に本をのせながら強引に読みつづける人….顕微鏡で拡大してみたなら、互いに「おかしな人」だらけ。(日本は“いい人”が多いほうだと思うけど)人それぞれに、反応も対処の仕方も違う。

この作品が単なる「恐るべき子供たち」ではない面白さを展開するのは、生々しいけど、常に「生」に前向きなところ。どこかみずみずしいところ。
また、あたかも「一人称」の日記の語り手が、「双子」の少年であるところ。

二人が街の生活に順応したころ、話は展開を迎える。

ハンガリーが舞台なら、この街はいったんドイツに占拠されたのち、まもなくソ連軍に侵攻される。

おばあちゃんの命の灯火もかげりはじめるころ、とつぜん父親が彼らの元へ戻ってくる。

物語は、急展開したところでスパッ!と完結する。

遙か遠く、双子の少年達の危うくも無限に広がる未来がパアッと目に浮かぶようなラスト。

そのあざやかさが見事で、「…やられた」と思いました。

どくしょ。

このひと月は、サッカー観戦と同時に、やたらと読書した。

5月の終わり頃から深夜に祖母が驚くような声や言葉を発するようになり、どうしていいのかわからぬまま、朝まで付き添うようになった。
音を消したテレビを眺めてると、以前の祖母を思い出して感傷的になった。
私が幼い頃は、よく祖母がトイレに連れて行ってくれたり、寝付けないと夜食に煮麺をこしらえてくれたりした。

…な〜んて感傷的になったってコトはかわらない!
どうせなら何か読もう、と思って読み始めたら、もう止められない。このひと月で15冊も読んでしまった。

さいきん、祖母は医師からの処方(漢方)が効いたのか、あまり目覚めなくなった。
ワールドカップもおわったし、生活リズムを戻そうと思う。

せっかく読んだので、ざっとメモ。

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『夏への扉』/ハインライン(再読)

文学には、評論家が高く評価するような「優秀な作品」と、とかく読者に「愛される作品」があると思う。

たとえば『赤毛のアン』シリーズは、作中のアイテムに至るまで世界中に愛されてる。
この『夏への扉』もそうで、歌のタイトルにもなったり、愛着を募らせる。

ジンジャーエールの好きな猫のピート、踏んだり蹴ったりの身の上ながら行動を惜しまず、ハッピーエンドを手にする主人公。
微炭酸ソーダを飲んだような爽やかさ。
猫好きが語るだけあって、猫の愛らしい習性がつまっている。

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『ライ麦畑でつかまえて』/J.D.サリンジャー

これも再読。サリンジャー氏が亡くなり、村上春樹さんによる翻訳版が出てたの思い出し、もいちど読もうと思ってた。

“青春小説のバイブル”と言われている。
けど私が18歳で読んだとき、まだ「青春を眺める」ほど生きていなかったので、その味わいがよくわからなかった。

主人公の少年はあまりに鋭い感性を持つゆえ、矛盾や不条理だらけの社会に出るには、頭でっかちでまだまだ幼かった。
すっかりみじめな気分になった主人公に、彼よりずっと幼い妹が「あなたは結局なにがしたいの?あなたは全てが不満なのよ。」といってのける。

ラスト、彼と妹のピュアで愛らしい場面に涙が。
なんともいえない感動受けた。

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このあと、衝動買いが続く。

『路上』/ケルアック

ビートの時代、あの年代の空気が興味深かった。

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『告白』/湊かなえ

映画になって話題だったので手にしてみた。
あっという間に読めたので、時間は上手く過ごせた。

でも、もう「本屋大賞」には惑わされないぞ、と思った。

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『華氏451』『火星年代記』/レイ・ブラッドベリ

好きな作家なので、気分回復に再読。

『霧笛』のような短編はわたしの「どツボ」なので、泣きたくないから今回は再読を避けた。

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『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』/オスカー・ワイルド

オスカー・ワイルドはなんといっても『幸福な王子』が好きで、なんとなく「ドリアン・グレイ」は読んでいなかった。

ナルシスティックな背徳の美青年…というとこのドリアン・グレイが必ず引き合いに出される。
汗を流さない貴族たちが、徹底して堕落へ向かうか、慈善事業をするかして、生活していている。

私が女子高生だったら別だけど、今はもう、こういう真昼からサロンに集まって「芸術とは」「快楽とは」を語り合う内容が苦手。

ビスコンティ監督だったら、退廃する貴族たちがプライドと堕落の狭間で「時代ののけ者」となってゆく様を、客観的に、か弱い者を慈しむように描くだろうナ、と思う。

でも、この「美と醜悪」についてしつこいほど繰り返される執着には、それと別の狂気を感じた。

『サロメ』は、聖書に出る女性で、何世紀にもわたって絵画や物語にされている。

音楽と美術と舞台(バレエなど)が華やかに結合した19世紀のおわりに、ワイルドは戯曲化した。それがR.シュトラウスのオペラにもなっている。

サロメがヨハネの斬首に口づけをするのは、この作品だ。

オスカー・ワイルドは、こうした神聖でありながらエロティックな美しさを装飾させるのが本当に上手いと思う。

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『枯木灘』/中上健次

再読。日本の文学を代表する作品で、「血」や「宿命」に読んでて重苦しくなってしまうところもあるけど、このラストまでの迫力、傑作と言われるゆえんなんだと思う。

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『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』/アゴタ・クリストフ

…と、ここで人からある作品を勧められた。
それが、アゴタ・クリストフの『悪童日記』。

80年代に世界中でベストセラーとなり、日本でもたいへん話題になった小説。
続編も生まれ、最終的に3部作となった。

けど、勧めた人は「この1冊だけでいいから」という。

その1冊目『悪童日記』が…すごかった。

あざやかで息をもつかせぬ面白さだったので、後日、改めて記。

ピーター・ブルックとアステア …X’masによせて-3

いちばん書籍に影響を受けたのは、やはり中・高校生のころです。

多感な年頃ですから、鉛筆でライン弾いたり、感想を余白に書き残したり…今開くと当時の興奮が伝わって気恥ずかしくなります。

なかでもボロボロになるまで読み返したのがこの2冊。

(左)『なにもない空間』/ピーター・ブルック著

60年代に出版されて以来、今も演劇を志す人のバイブルと言われる名著ですが、メソッド本ではありません。

原題は「the empty space」。

おおざっぱに言うと、

「演じる者&観る者がいれば、そこは劇場である」みたいな…。

これ読んで無限の可能性を秘めた「空間」に思いを馳せました。

小劇場、歌舞伎、新劇、ミュージカル、なかでも「能」それも「夢幻能」を観たときはショックでした。

(右)「アステア・ザ・ダンサー」/ボブ・トーマス著

現在は絶版、中古で手に入ります。

今やアステアの名をどこでも耳にしますが、当時はビデオだって今のように何でもみれななかったので、イエローページで関東のビデオ店に問い合わせしながら、アステアの作品を求め、てくてく電車に乗って歩き回りました。

たいていマニアックな作品は、六本木のWAVE…それと、なぜか千葉の南行徳のとあるビデオ屋さんにレアな作品がおいてあって、一人さみしく借りに行った記憶があります。
(さらに悲しいのは、また返しに行かなきゃならないことでした)

それがいまやyou tubeなんて!…驚いたことに、この本でも紹介されてる「an evening fred astaire」(アン・イヴニング・フレッド・アステア)という、エミー賞9部門をさらった伝説のTVショーが観れます。

時代の変化ってすごい…こんなの一生みれないと思ってました。

このTVショーは、アステアが映画の一線を退いてのち制作したものです。

ある日、無名のコーラスガールだった19歳のバリー・チェイスという娘を、60歳ちかいアステアが食事に誘う。それも、何度も誘う。

彼女はびっくり仰天しながらも、アステアと親交を深める。

周囲は二人の恋仲を疑いましたが、アステアからの男女の誘いは一度もなく、彼女も「なにが目的なのかさっぱりわからない」まま1年以上過ぎたある日「一緒にダンススタジオへ行こう」と誘われます。

そこでやっと彼女は、アステアのショー番組で「私がダンスパートナーを務めるのだ」と知るのです。

アステアは彼女を食事に誘いながら、ウマが合うかどうか、そして自己管理ができるかどうか様子をみていました。空腹にまかせてパクパク食べていれば「NO」なのです。

「彼は私を自宅に招いても、夕食が出来上がった時間には帰るように促すのです。なぜかって?それは、彼がフレッド・アステアだからよ」

共演者は大変です。アステアは女優に対してただダイエットしているのではない、色んなアンテナを張って勉強している、常に「ON」の状態にあることを求めていました。

周囲が恋仲だとばかり思っていた二人は、その後も友情をはぐくみ、バリーは学者と結婚し、アステアは愛妻を亡くしたあとしばらく独身を通し(やがて30歳以上年下の女性と結婚しますが)、長きにわたって良きダンスパートナーの成功例となりました。

私はこのプロフェッショナルなエピソードがなんか好きです。

姉と弟…光と影

ザ・無重力。この肉体はいったいどーやって出来上がるのか?

本を読んでわかりました…単に食べないのです。はは。

では、アステアの身体が風のごとく音楽に「なびく」のはなぜか。

それはきっと完璧主義のせいでしょう。

いまだこの「なびく」肉体には、なかなかお目にかかれません。

軽やかにとんだかと思えば、ドラムのようにドシンと床に張り付き、手も腰も表情にあふれています。

意外にも、筋トレやマラソン、柔軟などはしなかったようです。
代わりにとかく踊って肉体のあらゆるパーツを思いのままうごかせるよう訓練していたそうです(それのほうが過酷です)。

自分のテイクをみては「重いな」とつぶやき(はい?!)つま先の見え方、靴ひもの映り方までこだわったようですから、タネも仕掛けもない、アステアは「めちゃくちゃ練習に練習を重ねた努力家」です。

むしろ幼い頃から天才と呼ばれたのは、姉のアデールのほうでした。
姉アデールは4歳で頭角をあらわし、フレッドは姉の「影」でした。
そのアデールの影に徹したことこそが、アステアの特徴です。

アデールが結婚を機に引退したのち、独立したアステアは酷評を受けます。
けれど映画の中で、姉以外の女性と踊ったとき彼の真価が発揮されます。
「踊れない女性が、音楽のように、いとも軽やかに宙を舞う!」
ドレスの裾さばきといい、リフトといい…アステアがリードしていると、まるで「光と影」のように男女の動きが「シンクロ」して、女性が美しく映るのです。

私がアステアに感動したのは、なんといってもこの点です。

自分さえよく映ればいいのではありません。それでは作品は完成しない。
相手が映えるためには、自分が鍛え上げられていないといけない。

「アステアと踊れたなら!」と世界中のご婦人が思ったのも無理ありません。

上の衣装とダンス、マイケルの「スムース・クリミナル」でオマージュされてますが、マイケルは相当なアステアフリークで、周囲に何時間も映画をみせたり熱く語り、妹のジャネットはよくジンジャー・ロジャースの役をさせられたそうです(気持ちわかります)。

『バンド・ワゴン』の「ガール・ハント・バレエ」。

「Girl Hunt Ballet」

アステアは晩年マイケルのムーンウォークを褒め称え、自身も練習していたというのですから、あちらのエンターテイメントは奥が深いと思いました。

チャップリン …X’masによせて-2 

先日「幸福な王子」でオスカー・ワイルドを記しました。

きょうは読んだ日の感動を忘れたくないチャップリンの自伝を記。

完璧主義の映画人

「サーカス」

「モダンタイムス」

このへんの芸はすべてスタントなし!というから驚きです。
こんなにすごくて、数秒後ごとにお腹がよじれるほど笑える映画、今じゃない。

思い切り笑って感動したいなら、やっぱりチャップリン!

「チャールズ・チャップリン自伝(上)-若き日々-」

私はなんといってもチャップリンの映画が好きなのですが、このフィルムの申し子がどう生まれどう生きたのか、あるとき真剣に興味がわきました。

「人生に必要なのは、勇気と、想像力と、サムマネー(少しのお金)」

というチャップリンの言葉…この言葉は、大人になって少しばかり苦労を体験してみると、身体の芯からこたえるものだと思います。

そして読み始めた自伝、1ページ目の1行目から、手放せないまま夢中になってしまいました。

幼少期

前半は、すさまじい「貧困」の想い出です。

元・女優の母、ハンナ。父親違いの兄、シドニー。そして4つ下のチャーリー。
チャーリーの父親はそこそこ売れっ子の寄席芸人だけど、チャーリーが3歳のとき母ハンナと離婚します。

母子3人、はじめは女優の仕事もあってまずまずの生活。
ところが、ハンナが咽頭炎になって「声」を傷めてしまいます。
観客から罵声が飛んでどうしようもないとき、支配人がまだ5歳のチャーリーを舞台へ押し出します。
母の影響でモノマネが得意だった彼は、観客から大喝采を浴びて母の窮地を救う…それが初舞台でした。

母が女優を退いた後、3人は貧困を極めていく。

働けど働けど、貧富の差の激しいロンドンの片隅。
母は毎日借りたミシンで何十枚ものシャツを縫い上げ、まだ10歳にもならない兄弟は、街のいろんな職業に顔をつっこみ、家計の足しにします。

やがて三人は泣く泣く、貧民院(貧民窟)の世話になります。
母子は別ればなれになり、幼い兄弟は鞭打ちと消毒液にまみれた生活に。

耐えられなくなった母親が、執念で子供を引き取り、また3人の生活に戻ります。
けれど、貧しさは改善されることなく….

こうしたエピソードは、決して悲壮的に描かれていません。
ただ真実がありのまま時間に沿って告白されていて、それがまた、壮絶な貧しさを認識させるのです。

読んでいて感動するのは、母ハンナの陽気でたくましい性格です。

母の愛

「ごらん!通りを歩いてくるあの人、ハンサムだけど、きっとお尻にあいた穴を気にしてるんだよ」

空腹をまぎらすために、いろんな想像力を働かせて息子たちにお話をつくったり、歌ったり、踊ったり…
ある日、貧民院で面会が許されたとき、頭にタニシのいたチャーリーは丸坊主にされてやってきた。
看護士が「汚い顔してますけどご勘弁を」と言うと

「ええ、どんなに汚くてもいいわよ…ほんとに可愛いお前なんだから!」

と言って抱きしめ、なんぺんもキスをするのだ。
このお母さんは、とかく二人の息子を手元におき、無事に育て上げる…そのためだけに、生きていたといえる。

悲しいのは、ここからだ。

やがて別れた夫、チャーリーの父が、37歳の若さで肝臓を傷め死去し、仕送りが消える。
兄のシドニーがやっと17.8になって、少しばかり給与の出る船乗りの仕事に就き、渡航する。
ハンナは内職をしながら、チャーリーと二人、兄の仕送りを心待ちに暮らす。
ところが、渡航先で兄のシドニーは病にかかり、しばらく便りが途絶えてしまう。

心配に胸を痛めたハンナは、ある日精神を病んでしまう。

そのころ母は栄養失調ですっかり弱っていたことを、まったく知らなかった。

なぜか母のところへ帰らねばいけないような気がした。

門のところで近所の子供達が引きとめて、

「おかあさん、気ちがいになったよ」と小さい女の子が言った。

いきなり顔に平手打ちをくった気持ちだった。

————-

「お母さん!」「どうしたの?」

私は狂ったように泣き出した。

「みんな言ってたよ、お母さんは近所で…」
あとは嗚咽だけがこみあげた

「あれはね、シドニーを探しにいったんだよ。あの人たちがシドニーを隠してるんでね」

それだけでもう私は、子供達の言葉が嘘でなかったことを知った。

「医者を呼んでくる、すぐもどってくるよ」

———–

看護士たちが連れて行こうとすると、私を残していかなければならないことに気が付いたせいか、急に悲しそうに振り返った。

「さようなら、じゃ、またあしたね!」私はわざと陽気をよそおった。

医者は「ところできみはどうなるんだね?」という。

貧民院の学校はこりごりだったので、私はていねいに答えた。

「はい、叔母と一緒に住むことになると思います。」

病院から帰る道々、私の心はしびれるような哀しみに沈んでいた。だが考えてみると、あの暗い部屋で食べるものもなしに座っているより、病院で暮らすほうが母にとってはずっといいに違いない。

そう思うと私はホッとした。ただ、看護婦に連れて行かれるときのあのいたましい表情だけはどうしても忘れられない。

あのなんともいえぬ人の良さ、陽気な性格、そして優しい愛情が改めて心に浮かんできた。

いつも疲れ切って、心も空といった顔で、とぼとぼ通りを歩いてた小柄な母。私が駆け寄ると、とたんに表情が変わってニコニコ顔になる。

あの入院の日の朝でさえ、わずかばかりだが、ちゃんとキャンディをとっておいて…膝にもたれて泣いてる私にくれたものだった。

やっと部屋へ帰ってきたが、もうお恥ずかしいほどに何もない。

椅子の上に水のはいった洗濯だらい、私のシャツが二枚と、下着がつかっていた。

母の財布の中には半ペニイ銅貨が三枚と、鍵と質札。

テーブルの端には、母がくれたキャンディがそのままのっかっている。

またしても悲しくなって、私は泣いた。

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こうしてたった一人で夜明けを迎えた、まだ10歳そこらの少年の胸のうちは、どんなものだったろう。

私が一番弱いのは、まだ無邪気でいていいはずの子供が、その小さな胸に、容量以上の不安や哀しみを抱えている光景….どんな他人にも、救ってやれない重荷。

チャーリーという男の子は本当に強い。
翌日から「食べるために」荒くれ男にまじって肉体労働をしながら、母を見舞い、兄の帰りを待つ。

やがて兄のシドニーが、いい賃金を持ってチャーリーの元へ帰ってくる。
この兄も、母と弟のために辛苦をなめていたのです。

大人へ向かって

この事件よりまもなく、チャーリーはある芸人一座に拾われ、舞台デビューを果たします。

やっと18歳。ここから、持ち前の「知恵」と「勇気」と「想像力」そして「金が欲しい!」という思いからチャーリーの快進撃がはじまります。

後半、世界のチャールズ・チャップリンが誕生するまで、まるでトントントン…と階段をのぼるかのように、サクセスストーリーは「ひと息に」進みます。

兄シドニーと弟チャップリンの兄弟愛は、固く、固く結ばれたまま。

この後半がチャップリン誕生の要で面白いのではありますが…

悲しいことに、この「入院」の日を境に、ハンナの精神はもう元には戻りません。
結局、ハンナは二人の息子の成功を理解できぬまま、病院で息を引き取ります。

私はこう思いました。
きっとハンナは、神さまに自分の持つ「運」のすべてを幼い息子たちに託したんじゃないかと。

「私の命、私の自我…これらと引き替えに、この子達に未来を与えてやって下さい」

そうお願いしたんじゃないか、って。

アメリカ

チャーリーの活躍ぶりは、読んでいて嘘のようです。
そこにきれい事も、説教くさいヒューマニズムもありません。
「金が欲しい!」はじめはそれがモチベーションの全て。
ひたすらに笑いを追求したその先に、リアリズム…彼のペーソス、「笑うしかないほどの哀しみ」というヒューマニズムがある。

チャップリン映画の「湿っぽいところが苦手」という人もいますが、私は決してチャップリンがそこを強調したかったわけではないと思います。

チャップリンは、トーキーの時代になってもしばらくはサイレントにこだわり続けます。
けれど『独裁者』で、初めて肉声でセリフを発します。
あのヒトラーの雄弁、芝居がかった熱弁を表現するには、言葉が必須でした。

「(恋人)ハンナ…」と呼びかける女性の名前は、母ハンナの名前です。

このラスト6分間に渡るヒンケルのスピーチは、圧巻です。

でもこの映画のもう一つの名場面は、なんといってもこのシーンと思います。

ワーグナーの「ローエングリン」にのって、バレエのように、マイムのように、叙情的に…セリフ一つないままに、ヒンケルの心の闇と孤独を表現しています。

「ヒトラーという人間は、笑い者にしなければいけないのだ」

この映画はアウシュビッツの建設された頃に上映さたそうですが、今思えばスゴイ勇気です。
けれど当のヒトラーもこれを二回ほど観て、笑ったというのです。

後にチャップリンは「赤狩り」でアメリカを追放されますが、さらに後に、ハリウッドが最大級の名誉を贈って和解を申し出ます。

私は、この本の大半を占めている幼き日…母ハンナと、兄シドニー、三人の泣き笑いの生活が、忘れられません。

あの「放浪紳士」も、「心優しいお針子娘」も、「野良犬コロ」も、「キッズ」も…チャップリンの心には、永遠にあの日々が映し出されている気がします。

「モダンタイムス」のラスト、資本主義の機械生活から逃れた恋人同士が、新天地を求めて旅立ちます。

泣きそうなポーレット・ゴダードに、チャーリーが「smile!」と呼びかけます。

もちろん、流れる音楽は彼の作曲した「スマイル」です。

今こそ、またチャップリンの映画をみーんなで観て欲しいと願う私です。

新潮社より、上・下巻に別れた自伝の、「上」。

初版は昭和40年代で大ベスセラーだったようですが、今ではこの上巻しか手に入りません。(下巻は中古で手に入ります。高値ですが、私も中古で買いました。)

こうふくなおうじ…X’masによせて-1

もうすぐクリスマス。

純和風な家庭に育ったのでキリスト教の行事は今ひとつピンときませんが、やはりピカピカの街にプレゼントを思うと、浮き足だってしまいます。
と同時に、あったかい家の中にいると、果たして世界中の子供や老人が暖かい場所にいられるんだろうか…と考えてしまう。

昨年は、「マッチ売りの少女」のことを想った幼い日のことを記しました。
今年は、大好きな書籍を思い出していこうと思います。

『幸福な王子』オスカー・ワイルド

自分にとって「聖なる書」みたいな一冊、ありますよね?

私にも幾つかあって、中でも絵本は、読んで良し、飾って良し、食べて良し(うそ)…大人になって読めばさらに深い味わいのある物語たち。

「幸福な王子」は、そんな一冊。

これは、やはり原作が一番!です。

児童向けに編さんされたお話は、かなりのディテールが削除されています。

ですから「あのワガママな王子が、つばめさんを死なせちゃうお話?」と勘違いのまま覚えてる子供や、「つばめと王子がホモセクシャルなんだよね」なんて馬鹿げた解釈を持ち込む大人がいます。

私は、今でもこれを読むと泣けて仕方がありません。
「献身愛」の一言では片づけられない感情がこみ上げます。

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「きみを好きになっても、いい…?」

河岸に生える葦草に恋したツバメの、なんと愛らしいこと!

ツバメの失恋は、男女の恋の不条理です。

でもツバメは、王子の「彫像」に出会って本当の愛を知ります。

王子は幼くして命を落とし、「幸福なまま時間を止められて」街の高い場所に彫像となって蘇りました。

街を見下ろした王子は、「本当の幸福」が存在しないことに気づきます。

街には悲しい人々がたくさん存在していたからです。

王子の足下で寝泊まりしてたツバメさんは、王子の優しさに惹かれてゆきます。

王子は目の部分の「ルビー」を両方とも貧しい人に分け与えます。

ツバメは南国へ渡るのを止めて「この王子の目となって街を飛ぼう」と決心します。

冷えた羽を暖めるためにパタパタする姿が、とても可愛い。

たくさんの金や宝石を分け与えた二人は、ツバメの死を迎えます。

ツバメが王子の唇に接吻し、命尽きて足下に落ちてゆきます。

その瞬間、王子の鉛の心臓がピシッと音を立てて真っ二つに割れます。

街の市議や教授は、「美しくない芸術は役にたたない」と王子の身体を始末します。

ところが…..。

愛のおはなし

このお話にはいろんな意味が隠されています。

ツバメと王子は、真の友愛で結ばれます。

冒頭で葦草に恋して絶望するのは、代償を求めた愛。

王子との愛は、男女の性愛とは違う、無償の愛のような気がします。

宝石を与えられた貧しき人々が、そのチャンスを生かしていけるかどうかは解りません。

身を剥いでも、剥いでも、全ての人を幸福になんてできません。

でもだからこそ、その心はかけがえなく美しいと思えてなりません。

さいご…「救い」は、いつも個人と神との対話にあります。

決して生きて報われたり、富と名誉で救われたりは、しません。

「私はこれでよかった。」それを神が看取って天上へと引き寄せ抱きしめてくれる。

彼の物語でもまた、それが救いにあたります。

オスカー・ワイルド

オスカー・ワイルドは、きっと「ドリアン・グレイの肖像」やオペラの「サロメ」が有名だと思います。

耽美主義、男色、伊達男…いろんな評がありますが、私にはこの作品がオスカー・ワイルドの全てでした。

大変な才能で、美しく、逆説的に話が進んでゆくのは「ドリアン…」も「サロメ」も同じです。

でも「童話」というものは、簡潔で、シンプルに、わかりやすく話が進まなければなりません。

読んだ子供が、大人になっても忘れないように、印象的に、感動的に。

オスカー・ワイルドの童話には、この他に「わがままな大男」や「ナイチンゲールとバラの花」など、童話的な短編が幾つあります。

ワガママだった男が、やがて自慢の庭を子供達に解放する。その中にいた「手足に杭を刺された傷跡のある子供」→イエスキリストを象徴した、「受難を越えた子供」、によって天国へいざなわれていくお話。

愛する青年作家の恋を成就させるために、ナイチンゲール(夜鳴き鳥)が小さな心臓を白いバラのトゲに突き刺して、赤く染める。激情と、恋の不条理のお話。

両方とも、とても感動的なお話です。

ワイルドがどのような男性だったにせよ、これらの物語に息づく思想は、今でも私たちを導いてくれています。

とても短いお話です。
ご存知ない方、うろ覚えの方は、こちらもどうぞ→『幸福の王子』

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