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MY FAVORITE Archive

イノセント

映画「アイ・アム・サム」を観たのは数年前です。

名優ショーン・ペンが知的障害を持つ父親を、そして“天才子役”の呼び声が高かったダコタ・ファニングが、娘のルーシー・ダイアモンド(で、音楽はビートルズ)を演じていて、それは感動しました。

ショーン・ペンの演技もさることながら、子役のダコタ・ファニングがほんとうによくて…。

でも今日は、その映画についての話じゃありません。

このダコタ・ファニングの美しき成長ぶりを記事で目にしました。

かわい(^^)

きれいになった(^^*)

まばゆいばかり☆

現在16歳。演技も知的で、なんとなくジョディ・フォスターを彷彿とさせますよね。

もひとつ、ダコタの妹、エル・ファニング。

もう12歳だとか(- -;)

ちょっと見ないうちにさなぎから蝶へと変身している、この年頃。
時折「息をのむような」美しさに出会うことがありますが、人間に絞って考えてみると、少年・少女のもつそれは衝撃的。
もちろん人生の谷山を越えて備わる大人の美しさもそれに値するのですが、少年少女の美は理屈にならない神秘の芸術のようです。

それは「ベニスに死す」で主人公が感じるような恍惚であっても、ナボコフの「ロリータ」の世界ではありません。その移ろいに手出しは無用で、なぜなら未成熟の美、成長している美だからです。

話逸れますが、いまインターネットにはこの未成熟の魅力を大人の欲求で汚し、犠牲にしている商売が溢れかえってますよね。考えるだけで気分が悪くなります。後にどんだけ苦しいトラウマとの葛藤が起こるのか、無責任な大人は考えちゃいない。それがまた腹立たしいです。

子供って(自分で思い出してみても)、その未熟な胸のうちに大人顔負けの不安や願い、そして夢を秘めている気がします。
捕まえようとするとスルリと抜けだし、追いかけるたび変貌をくり返す。
大人びた表情、子供らしい表情、あどけなさと冷酷さ、明るさと憂い…ひとときとして同じ表情を留めない。

でも一番似合うのは、やっぱり笑顔でしょうか。

Ballet Cat

ソウルの猫種、アビシニアンは別名「バレエ・キャット」というそうな。

「ふふ…ボクのことだね。」(ハイ?)


バレエのトゥ(つま先)のような立ち姿だから、だそうです。

しなやかな手足も、なんとなくそれっぽいですね。

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先日、おなじみ音楽家のMさんと、青山のカフェレストランでお食事。

外のテラスで気持ちいい風のなかアイスティーを片手に「こんな時間はひさしぶ…ぶり…で..」と話しかけるも、さっきからMさん、聴いちゃいない。

じいっと私の肩越しに誰かをみつめている。

「あ、あの〜(また美しい人でもいるのかな?)」と振り返ってみた瞬間。
ブホッ(> <:)///…私のほうがアイスティを吹き出してしまった。

バレエダンサーの首藤康之さんが、後ろのテーブルにいたのだ。

「なんでもっとはやく教えてくれないんですかっ!」→わたし

「え、あの人だれ?」→誰だか知らずに、美しさにみとれていたMさん

…というわけで、美しい姿勢で数人の女性と打ち合わせらしき話をしていた首藤さんは、どの女性よりもキレイでした。

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そのあと、なにかのきっかけから山岸涼子さんのマンガ「舞姫〜テレプシコーラ〜」を全巻読みました。
これ、バレエのマンガです。
山岸さんは「アラベスク」有名ですが、現在連載中のこの作品も、大人気とのこと。じっさい私の知る、バレエ教室に通う子供たちもみんな読んでるそうです。

そんなにおもしろいのなら…と読んでみたのですが、かなりリアルでびっくり。

山岸涼子さんらしく内容も容赦なく過酷で、ちょっとえげつない社会問題なんかも盛り込まれていて、読んでいて辛くなるときも…。
ですが、その手に汗握る展開にはいちど読み出したらとめられず。
バレエのシーンも美しいし、大人から子供まで引き込まれるのも無理はありません。
とくにバレエに関しては(ダンサーを目指すものにとって)勉強になる情報が多く、肉体に関して「へえ…」「なるほど」と勉強になりました。

私も幼いころすこし通っていたので、あの独特の空気を思い出しました。

大人が通うただのレッスンなら楽しい。けど、バレエの世界は10代が勝負なので、子供になるほど先生の言うことまたキビシイ。プロを目指していた子などは、それはもう容赦なく指摘されていた。

私は気楽なレッスンだったので、あのころ感じた緊張感をいろんな場面で思い出すことができて良かったと思ってます。

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つづいて、おなじく山岸涼子さんの「牧神の午後」も読みました。

これは伝説のダンサー、ニジンスキーが自身で振り付け初演した、有名な舞踊です。

これは当時はかなりセンセーショナルな振り付けだったようです。

19世紀の終わりから20世紀初頭は、それはもう今や有名な音楽家、画家、踊り手の才能が結集した時代。

そのニジンスキーについて、以前読んだチャップリンの自伝にいろいろな思い出が書かれていました。

当時の名プロデューサー、「ディアギレフ」とニジンスキーは、いわゆる愛人関係(両者とも男性ですが)でしたが、ニジンスキーは内密に女性と結婚してしまったり、ワガママが過ぎてディアギレフの手に負えなくなって決別します。

まさにその渦中の様子が、チャップリンの自伝にも描かれています。

チャップリンは、そのニジンスキーに「あなたは、ダンサーだ」と賞賛される。

やがてある日、彼の公演を観に行ったチャップリンは、幕間に彼の楽屋へ呼ばれる。

とりわけ何を話すでもなく、「そろそろ客席へ戻ります」と言っても彼は「まだいてくれ」と言ってチャップリンを返そうとしない。

開演のベルもとうに時間がすぎて、ディアギレフが楽屋に怒鳴り込んできて…

と、このようにニジンスキーはじょじょに発狂してゆきます。

そんな彼の舞踊日誌(というか、振りを記録したもの)はかなり緻密で、まるで音楽の楽譜のように踊りが記譜されていたといいます。

そして、その踊りはこの世のものと思えないほど繊細で独創的だったそうな…映像が残っていないのが残念です。

この時代、音楽家はチャイコフスキーからドビュッシー、ラヴェル、ストラビンスキーなどなど、そこにジャン・コクトーが脚本を書いたり、舞台美術がピカソだったり、衣装がココシャネルだったりと、なんとも豪華な舞台芸術の時代だったのですね。

「愛と哀しみのボレロ」のジョルジュ・ドン

これらを読んでたら、またジョルジュ・ドンがみたくなりまして、「愛と哀しみのボレロ」の、ベートーベン7番の場面の華麗な跳躍を、繰り返し観てしまいました。

そして、「ボレロ」のdvd、つぎにシルヴィ・ギエム…

と、感化されやすい私は寝不足になってしまいました。

vol de nuit  サン=テグジュペリによせて

『夜間飛行』と『人間の土地』。

とても素晴らしくて、読み終えて「なぜもっと早く読まなかったのだろう」と思いました。

「夜間飛行」「人間の土地」(カバー:宮崎駿)

サン=テグジュペリといえば、『星の王子さま』が有名です。

ですが、もしも大人のあなたが『星の王子さま』を好きなら、この2書を読まないのはあまりにもったいない….と、言われたことがあります。

「愛は向き合うことではない、同じ方向をみつめることだ」など、誰しも耳にしたことのある名言の数々が「人間の土地」に詰まっていました。

空を飛ぶことが大冒険だった時代に、郵便航空の飛行士として空を舞った、サン=テグジュペリ。

これらの書はその体験に基づく物語です。

「星の王子さま」とおなじに、彼ら飛行士もまた「孤独」で、それは人間の孤独です。

されど空を愛し、空から眺める大地を愛し、人と人の繋がり、大地と人の繋がり、「義務、責任を果たすこと」に幸福を見出し、命を賭けて勇敢に空を飛ぶ。
堀内大學の訳文は、少々若い人には読み辛いかもしれません。

でもとても美しく、原文の魅力…サン=テグジュペリの詩的な世界が、ちゃんと伝わってきたので、読んで良かったと思いました。

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『夜間飛行』は、ゲランの名香の名前にもなっています。

今ほど安全でない時代に、命がけで飛行業務をこなす仲間。

“この生には解決策などないんだ。あるのはただ、前進してゆく力だけだ。その力を創造しなければならない”

たった一夜の話だけど、星降る夜空、アンデス山脈での嵐、飛行士フェビアンが方位を見失って彷徨い、地上では、支配人が思いめぐらせる情景など、…とてもリアルであるゆえに、なにか「遠い夢」を見続けているような気分になりました。

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『人間の土地』も、ほんとに良かったです。

読んでみて、宮崎駿さんなど世界中の作家たちに与えた影響の大きさを感じました。

職業の偉大さとは、おそらく、なによりもまず、人間たちを結び合わせることだ。”

ほんとうですね。なにかの作業は、なにかのための労働であるなら、なにかに反射され、その労働をとおして人と社会が繋がりをもつのです。

“真の贅沢はひとつだけしかない。それは人間関係という贅沢だ

実際にリビア砂漠に不時着し、3日後に奇跡の生還を果たしたエピソードは「星の王子さま」の原体験です。

彼と同僚の二人は、リビア砂漠の激しい乾燥が身体中の水分を蒸発させるなか、機体についた朝露をかき集め、飲んでは嘔吐し、口も食道もはりつき、お互いに「幻覚」を見続ける。

それでも前進するのは、ただひとつ「自分たちの信号がとぎれ、悲しみにくれ、探し続けて居るであろう仲間、家族=遭難者のため」。その者たちに「生きている、俺たちは生きている!」と「救援」してやりたい気持ちだけが、彼らの足を動かすのです。

“我慢しろ…ぼくらが駆けつけてやる!ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!”

彼らの中で繰り返し浮かぶ光景は、「朝のミルクとパン」「真っ白いシーツ」「我が家の窓の灯火」…飛行のあとはこれら日常のささいな光景が、たまらない幸福となる。

リビア砂漠の極限の中で、カバンの中から一個みつかったオレンジを、きっちり半分に割り、わずかな水分を分け合う姿。

“水!水よ!そなたは味も色も風味もない、そなたを定義はできない、人はただそなたを知らずそなたを味わう。

そなたは生命に必要なのではない、そなたが生命なのだ!”

水や土、それに含まれる成分である自然を粗末することは、すなわち、己を粗末にすること。人間…心臓というもっとも高性能なエンジンをもつ神秘の肉体を。

農夫が土を耕すのは、鍬や鋤のためではない。

決して命を軽んじるわけではない、けれど「ぼくは死を軽んじることを大層なことと思わない、死が責任の観念に深く根ざしていないかぎり」と言い切っています。

サン=テグジュペリの「職業」としての飛行士体験は、まだエンジンが「発動機」の時代に、たいへんな勇気のいる冒険です。

機体が破損し、遭難しては、さいご「己の心臓」というエンジンに「動け、もう一度動け」と呼びかけながら前進する。

アンデス山脈の航路、「空の裂け目」を発見しては奇跡の生還を果たす、それを繰り返しながら同僚は、また旅立つ。

彼が帰ってくるのは、いつもきまってふたたびまた出発するがためだった。

激しい「責務」を負うと同時に、「見果てぬ夢」を追い続ける。

…そんな男性たちの姿に、とても胸がしめつけられました。

単なる航空文学の先駆といってはもったいない。

サン=テグジュペリならではの「哲学」は、行動した人間ならではの冒険なのでたいへんリアルです。
また空からの町並みや、山脈で、また砂漠の中で思い出す「我が家」の光景などは、童話のように美しくて感動しました。

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これらの飛行士人生を通して生み出された『南方郵便機』『夜間飛行』『人間の土地』そして『闘う操縦士』を経て『星の王子さま』が生まれるのですが、そう思って再びこの童話を読むと、なんと味わい深いことでしょう。

『星の王子さま』の冒頭、主人公がまだ子供のころ「ゾウをのみこんだ、ボア(うわばみ)の絵」をかくと、大人たちはきまって「これは何だ?ここは何だ?これは帽子の絵か?」と、やたら質問をして否定する。

やがて大人になった主人公は、飛行士となってサハラ砂漠に不時着する。

そこで出会った小さな王子に、愛らしい声で「ヒツジの絵を描いてよ」とせがまれる。

いろいろ描くも、王子は満足しない。

そこで、四角い箱を描いて「ヒツジはこの中だ」と言うと、王子は「ボクが欲しかったヒツジはこれだよ!」と喜ぶ。

そしてその王子は、地球にあるたくさんのバラをみて、自分の星のたった1本のバラが、ただのちっぽけなバラだったことを知って落胆する。

それでもそのバラが愛しく思い出されて仕方ないのは、彼女が「バラだから」ではなく、自分が「毎日水をやり、風をよけ、語りかけたバラだったから」だったことに気づくのです。

サン=テグジュペリの世界の魅力は「地球のあちこちに隠された井戸」みたいに果てしなく、人生がサハラ砂漠のように感じたときには、オアシスのように感性を潤してくれるでしょう。
『闘う操縦士』にはこんな一文があります。


戦争は冒険ではない。戦争は病気だ。チフスのように。

そして、

わたしはいつも、傍観者が大嫌いだった。参加しないとしたら、わたしはいったい何者だろう?存在するためには参加することが必要だ。

彼は、1944年7月31日、コートダジュール沖でドイツ軍の戦闘機に撃墜され、その飛行する生涯を閉じました。

Le Petit Prince

本読んでると、かならずソウルが飛び乗ってきます。

「ぼくもよむ」

はじめ本の上にちょいちょい手を出し、わたしの顔をのぞき込んでフガフガとと鼻息かいで「生きてるか?」確認すると、わたしの投げ出す足に絡まって、じゃれたり、もたれて毛繕いして、さいごは足の甲の上にアゴのっけて寝ます。

ときおり、つま先でソウルをむにっ!と挟んだり、撫でたり(フワフワ、もこもこ、あったかくて気持ちいい)、ソウルも嫌がらずに寝ています。

たま〜にそのまま寝てしまい、寝返りうってソウルの頭に「かかと落とし」食らわせてしまい、「ンぎゃっ!」と噛まれることがあります。

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いま、サン・テグジュペリの『人間の土地』『夜間飛行』を読み始めています。

先日、大人になって久しぶりに「星の王子様」を読んだら、なんかはまってしまいました。

物語の挿絵はすべてサン・テグジュペリ自身の描いたものですが、今みてもなんとも可愛らしい。

小さな王子のかわいらしい「声」…耳元で聞こえてきそうです。

それに、王子が愛し、育て、幻滅、離別し、やがて死ぬまで思慕する「赤いバラ」…たった4つのトゲで誰をも寄せ付けない、あどけなくて美しい貴婦人のようなバラが目に浮かびます。

絵画センスもよく物語も象徴的で美しい、これは詩人か画家だろう…とはじめ読んだときは思ったけど、サン・テグジュペリの本職は「飛行士」なんですね。

飛行機が好きで、好きで、自ら志願し軍用機の操縦士になったほどの「ヒコーキ野郎」。

その体験談を元に、著作が生まれているのだから面白いです。

いま読んでる作品も、とっても面白いです。

わたしも、いちどでいいからソウルと夜空を飛んでみたいな〜。

こいつ、黒目全開でつり上げて、耳アンテナぴんっ!て立てて、興奮するだろーな。

Let’s Spend The Night Together

ギターの帰り道…夜なのに暑くていらいら。

夜の246歩きながら、この曲聴いたらスカッとした。

♪Let’s spend the night together
Now I need you more than ever…
Let’s spend the night together now

『 Let’s spend the night together』(1967)はローリング・ストーンズの曲だけど、わたしが聴くのは、D.BOWIEのカバー(1973)のほう。

ボウイーは、アレンジセンスがめちゃいい(と思う)。
もう別の曲?ってくらいアップテンポで、原曲の良さがグッと増すかんじ。

『Let’s Spend The Night Together』/David Bowie

このスピード感が気分。いま聴いても古く感じない。

久しぶりにオリジナル聴いたら、「こんなにゆったりだったっけ?」と思った。

『Let’s Spend The Night Together』/The Rolling Stones

それで…
ミック・ジャガーとボウイーはお友達。

『Dancing In The Street』

これが好きだったナ。

ミックの不思議なダンスといい、衣装も80年代ってかんじで…ボウイだから着こなしてるけど、ビミョーな重ね着。
でも二人が、すごくカッコイイ。

……..そういえば、ワールドカップでミックは負け試合ばかり観戦してた。
だからって、敗因にするのはひどいと思った〜!(→大衆紙)

どくしょ -3

つづきのつづき。

「ふたりの証拠」「第三の嘘」 /アゴタ・クリストフ

「悪童日記」という処女作でいきなり世界的ベストセラーを起こしたアゴタ・クリストフによる続編です。

「ふたりの証拠」では、双子の少年の名前…リュカ(LUCAS)とクラウス(CLAUS)というコトバあそびのような名前が明かされます。

引き離されると吐き気やめまいが起こるほど一心同体だった双子が別れ、ひとりは国境を越え西へ…物語は主に、東に残ったリュカのエピソードになります。

手法もガラっと変わり、「ぼくたちは」から「リュカは」となります。

大人になったリュカが、恋をしたり、子供を引き取って育てたり…物語は切ない展開になるのですが、いきなりラストで「クラウス」が登場します。
先が全くよめなくなったところで、これは終わります。

「第三の嘘」では、ベルリンの壁が崩れ再会した二人のその後(それまで)が完全に明かされます。

二人は一人だったのか?いや、たしかに二人…ではあの「日記」はいったいなんだったのか?という、まさに「フィクションの世界」が繰り広げられます。

これはこれで、とても面白かった。

同じ登場人物なのにそれぞれ「味わい」がまったく違い、読んでいてなんども翻弄されました。

そして、この2冊をたてつづけに読んでしまうほど、1作目の勢いがすごかったのだ、と思いました。

正直な感想として、「悪童日記」でガツン!ときた新鮮さ、斬新さはどんどん薄れていきました。

この続編は当初の構想ではなかったようで、「あとづけ」されたものだそうです。

「悪童日記」の、あの独特な、無国籍で、リアルでシュールな世界。
人が精神的に追いつめられると感情を「かい離」させて思考する、という心理的に緻密で、描写的にあざやかだった。

私の中では、1作目の(リュカとクラウスという)いったい実在したのかさえわからない双子の少年がいつまでも胸に残った。

どくしょ。- 2

  • 2010-07-19 (月)
  • book

とても印象的な面白さだったので、あらためて。

『悪童日記』/アゴタ・クリストフ

戦争が始まり、幼い双子の少年は、(父が出征したのち)母に連れられて「小さな街」に住む祖母の元へやってくる。

母は一人暮らしの祖母に彼らをあずけ、出て行く。

「小さな町」で、少年たちの過酷な生活がはじまる。

ハンガリー出身の女性作家アゴタ・クリストフの処女作だそうです。

舞台は第二次世界大戦時のハンガリーのようですが、作品のさいごまで、国名、地名、主人公である少年たちの名前すら出てきません。

物語は、常に「ぼくたちは」で語られ、日記のような、作文のような形式で進みます。
事実だけが記され、感情は徹底的に削られています。

「おばあちゃんは、魔女に似ている」と書くことは禁じられているが、「おばあちゃんは、魔女と呼ばれている」ことは許される。

こうしたさまざまな「ルール」は少年達が生み出すもので、身なりも落ち、労働にあけくれ満足に勉強もできない環境の中で、双子は知恵をしぼりあい、とてもユニークな方法で、互いを肉体的・精神的に鍛え上げてゆく。

厳しくて孤独なおばあちゃん。

隣に住む、貧しさと狂気の中で暮らす少女と母親。

おばあちゃんの家で間借りしている軍人さん。

神父様のお世話にやってきた、若い娘。

日記に記される大人達は、この状況下ならいそうな人たちだ。
でも彼らのピュアなフィルターは「裁き」よりも生々しく、描かれる大人たちは、まるで罪状をあばかれた罪人のようだ。

思えば私だって、毎日のように満員電車の中で小さなこぜりあいを目にしていたころは「いったい私たちの誰が100%「まとも」だと言えるのだろう」と考えた。
みんながイライラしていて、表情ひとつ変えずに痴漢している人がいたり、具合悪そうな人を目の前に立とうとしない人、ちょっと触れただけで迷惑そうに髪をふり払う女性、人の頭に本をのせながら強引に読みつづける人….顕微鏡で拡大してみたなら、互いに「おかしな人」だらけ。(日本は“いい人”が多いほうだと思うけど)人それぞれに、反応も対処の仕方も違う。

この作品が単なる「恐るべき子供たち」ではない面白さを展開するのは、生々しいけど、常に「生」に前向きなところ。どこかみずみずしいところ。
また、あたかも「一人称」の日記の語り手が、「双子」の少年であるところ。

二人が街の生活に順応したころ、話は展開を迎える。

ハンガリーが舞台なら、この街はいったんドイツに占拠されたのち、まもなくソ連軍に侵攻される。

おばあちゃんの命の灯火もかげりはじめるころ、とつぜん父親が彼らの元へ戻ってくる。

物語は、急展開したところでスパッ!と完結する。

遙か遠く、双子の少年達の危うくも無限に広がる未来がパアッと目に浮かぶようなラスト。

そのあざやかさが見事で、「…やられた」と思いました。

どくしょ。

このひと月は、サッカー観戦と同時に、やたらと読書した。

5月の終わり頃から深夜に祖母が驚くような声や言葉を発するようになり、どうしていいのかわからぬまま、朝まで付き添うようになった。
音を消したテレビを眺めてると、以前の祖母を思い出して感傷的になった。
私が幼い頃は、よく祖母がトイレに連れて行ってくれたり、寝付けないと夜食に煮麺をこしらえてくれたりした。

…な〜んて感傷的になったってコトはかわらない!
どうせなら何か読もう、と思って読み始めたら、もう止められない。このひと月で15冊も読んでしまった。

さいきん、祖母は医師からの処方(漢方)が効いたのか、あまり目覚めなくなった。
ワールドカップもおわったし、生活リズムを戻そうと思う。

せっかく読んだので、ざっとメモ。

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『夏への扉』/ハインライン(再読)

文学には、評論家が高く評価するような「優秀な作品」と、とかく読者に「愛される作品」があると思う。

たとえば『赤毛のアン』シリーズは、作中のアイテムに至るまで世界中に愛されてる。
この『夏への扉』もそうで、歌のタイトルにもなったり、愛着を募らせる。

ジンジャーエールの好きな猫のピート、踏んだり蹴ったりの身の上ながら行動を惜しまず、ハッピーエンドを手にする主人公。
微炭酸ソーダを飲んだような爽やかさ。
猫好きが語るだけあって、猫の愛らしい習性がつまっている。

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『ライ麦畑でつかまえて』/J.D.サリンジャー

これも再読。サリンジャー氏が亡くなり、村上春樹さんによる翻訳版が出てたの思い出し、もいちど読もうと思ってた。

“青春小説のバイブル”と言われている。
けど私が18歳で読んだとき、まだ「青春を眺める」ほど生きていなかったので、その味わいがよくわからなかった。

主人公の少年はあまりに鋭い感性を持つゆえ、矛盾や不条理だらけの社会に出るには、頭でっかちでまだまだ幼かった。
すっかりみじめな気分になった主人公に、彼よりずっと幼い妹が「あなたは結局なにがしたいの?あなたは全てが不満なのよ。」といってのける。

ラスト、彼と妹のピュアで愛らしい場面に涙が。
なんともいえない感動受けた。

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このあと、衝動買いが続く。

『路上』/ケルアック

ビートの時代、あの年代の空気が興味深かった。

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『告白』/湊かなえ

映画になって話題だったので手にしてみた。
あっという間に読めたので、時間は上手く過ごせた。

でも、もう「本屋大賞」には惑わされないぞ、と思った。

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『華氏451』『火星年代記』/レイ・ブラッドベリ

好きな作家なので、気分回復に再読。

『霧笛』のような短編はわたしの「どツボ」なので、泣きたくないから今回は再読を避けた。

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『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』/オスカー・ワイルド

オスカー・ワイルドはなんといっても『幸福な王子』が好きで、なんとなく「ドリアン・グレイ」は読んでいなかった。

ナルシスティックな背徳の美青年…というとこのドリアン・グレイが必ず引き合いに出される。
汗を流さない貴族たちが、徹底して堕落へ向かうか、慈善事業をするかして、生活していている。

私が女子高生だったら別だけど、今はもう、こういう真昼からサロンに集まって「芸術とは」「快楽とは」を語り合う内容が苦手。

ビスコンティ監督だったら、退廃する貴族たちがプライドと堕落の狭間で「時代ののけ者」となってゆく様を、客観的に、か弱い者を慈しむように描くだろうナ、と思う。

でも、この「美と醜悪」についてしつこいほど繰り返される執着には、それと別の狂気を感じた。

『サロメ』は、聖書に出る女性で、何世紀にもわたって絵画や物語にされている。

音楽と美術と舞台(バレエなど)が華やかに結合した19世紀のおわりに、ワイルドは戯曲化した。それがR.シュトラウスのオペラにもなっている。

サロメがヨハネの斬首に口づけをするのは、この作品だ。

オスカー・ワイルドは、こうした神聖でありながらエロティックな美しさを装飾させるのが本当に上手いと思う。

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『枯木灘』/中上健次

再読。日本の文学を代表する作品で、「血」や「宿命」に読んでて重苦しくなってしまうところもあるけど、このラストまでの迫力、傑作と言われるゆえんなんだと思う。

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『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』/アゴタ・クリストフ

…と、ここで人からある作品を勧められた。
それが、アゴタ・クリストフの『悪童日記』。

80年代に世界中でベストセラーとなり、日本でもたいへん話題になった小説。
続編も生まれ、最終的に3部作となった。

けど、勧めた人は「この1冊だけでいいから」という。

その1冊目『悪童日記』が…すごかった。

あざやかで息をもつかせぬ面白さだったので、後日、改めて記。

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