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2008-06

dash!

出がけに玄関の戸の前に立つと、ソウルは…

かならずこうなる。

「オマエが出るならボクだって出る!」そういわんばかりに鳴く。

いつも抱えてuターンさせて奥にポイするけど、ダッシュで舞い戻る。
この繰り返しがかなりうっとおしい。けどその気持ちもわかるので、「じゃど〜ぞ」と出してみた。

「やっほ〜い!」と廊下をスリップしながら駆けめぐる。
外につながる階段には私が立ちはだかっている。
仕方ないので上へ上へいくうち、屋上の扉の前でつかまる。

「扉のむこうはつまんなかった」…と思わせたくなかったけど、それでもちょっぴりご満悦な様子のソウルでした。
6月、おわり☆

フルコース

きょうは、よき先輩で友人でもあるアヤコさんのエスコートで、赤坂のかわいいフレンチレストランで食事した。
そんな時間も久しぶりのうえに、先日迎えた誕生日のプレゼントまでいただいて…感激!(;_:)ウルル

手頃なお値段でディッシュの数が多く、お料理が美味しい。客席も満席。とくにさいごのデザート…
その前に。アヤコさんは美人だ。そのうえ女優さんなのでさりげなく目立つ。が、にもかかわらず、全く気取りがない。
コースの終盤、隣の女性陣をみると、「アレとコレとソレ…」と2〜3種類の大きなケーキを選んでいた。
すごいな、と思って眺めていると、アヤコさんは私たちの元にやってきたパティシエに「ぜんぶおねがいします。」と答えた。サスガ!
「ちょっとずつ盛りつけるのだろうな」と思って待ってると、見本のような盛りつけのケーキが顔よりおおきなお皿でやってきた。

どのくらいかというと…

美味しかったけど苦しかったけどでも、やっぱりワクワクした。
喋って笑ってるうちに、お腹はへこんだ。

私はアヤコさんと食べるといつも楽しいのだ。

mind sleeper

さいきん、ソウルが起こしてくれない。

…というより、気圧のせいかな。
あまりソウルの呼びかけを無視すると、まぶたに爪を立てられ 「うぎゃ〜!」という朝の惨事が起こる。
小っちゃい頃はピョンピョンお腹の上を飛び跳ね、かわいく起こしてくれたのに…

ソールも、大人になったのネ…(としみじみ寝る)。

眠りにおいて人はおおむねロングスリーパーとショートスリーパーに属するらしい。

  • long sleeepr 9時間以上
  • short sleeper 6時間以下

7.8時間が良いというけど、本来、眠りのパターンは人によって様々という。
眠りの一番の役割は「回復」。長い時間を要するので、「睡眠を制したい」と思う人は多いと思う。
ナポレオンやエジソンはショートスリーパーで、アインシュタインはロングスリーパーだったという。
前者は、政治家や実業家など脳の切り替えが得意で負担をかけない人。後者は、感覚的だったり、問題を突き詰める芸術家や研究家に多いらしい。

ちなみに私はロングスリーパーで、潜在的に悩みがあると、決まった時間に目を閉じても睡眠不足に陥る。あるとき医師からこうした話を聞いたおかげで、気づいたのです。
睡眠は明日の活力!自分とって良い睡眠リズムを知り、心身の健康に気をつけようと思います。

マッキンキャット

パーソナルコンピュータを所有するようになって、かれこれ10年ちょっと。

周りの音楽業の人たちの影響で、はじめにアップル社のmacintoshがやってきて以来ずっとmac。
でもwindowsに触れる機会も多いので、最近は併用するようになった。
個人的には、色合いやアイコンやラインの美しさも含めて慣れ親しんだせいか、macのOSに愛着がある。
面白いと感じたのは、そのOSのコードネーム。

  • Mac OS 7.5 「Mozart」
  • Mac OS 7.6 「Harmony」
  • Mac OS 8.0 「Tempo」 ※「copland」は廃止
  • Mac OS 8.5 「Allegro」
  • Mac OS 9.0 「Sonata」

共通テーマは音楽。上記についてはそう思われます(コープランドは作曲家のアーロン・コープランドかな?)。

そして、現在のOS X シリーズ。

コードネームはネコ科シリーズ。

シャムからいきなりチータで、ピューマ、ジャガー、パンサー、タイガー、スノーのレパードまで…なんだか強そう。(ここにアビシニアンがくるとは思えない。)Mac屋さんは音楽やネコが好きなのかな。
次はどんなシリーズかすこし楽しみ。

え〜そんなわけで…、今日はこのへんで(上の図に時間かけてしまっタ)。

tea time

なんだかとっても眠気のぬけない雨の週末。

□きのうは久しぶりの知人と、久しぶりの代官山で食事の約束があった。
じゃ、あのカフェで…と向かうと、そのカフェがなくなっていた。
ついにここも、撤退か…ギャルソンも感じが良くて、いいカフェだったのにな。新しい店はどこかハリボテな内装が好みじゃないし、コーヒーの味と店の味は、けっこう一致している。

□ティータイムといえば…亡くなった私の母は、子供4人に父の仕事の手伝いという慌ただしさの中も、日曜の朝は「ハーブつんでお茶にしたの、飲まない?」とセットするようなのんびり屋さんだった。が、たいてい遅く起きた兄は「時間ない」といってスルー。父はお茶をだまって飲み干す。
(な、なんてつくり甲斐のないお茶かしら…でも、いつものことよネ)と母の顔にセリフの吹き出しがみえる。
一番チビだった私は、よくその一部始終を眺めながら「おっきくなったらアタシだけは、おかーさんにつきあってあげよう」と思ったものだ。

□でも、母のあの空気感がないと寂しい。私もそんな時間がとっても好きなのだ。
そのティータイムの一席に、いまは「ソウル様」が加わっている。

冷蔵庫あければ中に入る → ジャムの蓋をあければ首をつっこむ → 珈琲を肉球でかきまぜる(おい!)…てカンジで、なかなかの味だ。

いちど、ソウル様を「特別席」の隣の部屋にとじこめた。
すると恨めしそうな爪が、映画「シャイニング」の斧のようにガリガリ音をたててコワイ。「バカヤロー、ヒトリデナニタベテルンダ、ヒドイジャナイカ、バカバカバカ!」と叫んでいる…なにか美味しいスコーンもノドにつかえる思いがして、ドアを開けてしまった。
「そうだ、ソウルにもおやつをだして、一緒におやつタイムにしよう。」とひらめいた。
すると、ソウルはそれをガツガツガツ急いでたべて「どどどど…ただいま参上!」ってかんじでテーブルに上ろうとする。
そんなとき、「参上!」とジャンプした瞬間、私の足にゴールデン・ヘディングをくらって、視界からピューンと消えている。

…やっぱり、店の味と珈琲の味は一致している。

うっとおしいてんき

家にいると、うだるようなムシムシ感。

最近スカイプをつないだけど、PCのマイクがうまく機能しないせいでなかなか実現できない。そして夕方、ヘッドセットをプレゼントしてくれたお友達のMさんと通話を試みるも…
やっぱしダメ。がく…

Mさんと話すと会話がはずむ。スーパーボールのようにはずむ。これはひとえにオモロイMさんのせいだ。

これはぜったいスカイプを実現せねば!…タダだから (*´▽`)

guilty or not guilty ? 

きのう大島弓子さんの「グーグーだって猫である」について雑記した。
すると知人から「(作品内の)地域猫への餌付けに批判があるらしいよ」ときかされた。

驚きもしないけど、なにかこう…息苦しい世の中になったね、とおしゃべりした。

議論されるのは、それだけ注目がある証だ。
吉祥寺を舞台に、今は短編を書きながら、自身の猫や庭先にやってくる猫たちの世話に追われている様子がエッセイになっている( 「手塚治虫文化賞・短編部門賞」受賞)。前向きにお歳を重ねている様子が、ファンとして嬉しいし、決して「ぎょええっ!」ってコワイことも、摩訶不思議なことも描かれていない。

それでも。ツツく人は、ツツくのだなあ、と思った。

近年の問題は深刻だ。
何かトラブルのとき、(決して無関心・無対処ではないのに)「最善」の対処をしないと「最悪」と非難される傾向がある。たとえば、ノラ猫の養護について。

ギルティ派

糞尿で迷惑している → 撃退するために有害なものをまく→ 餌付けする人、避妊させない人が許せない → もはや徘徊する猫が視界にはいるだけでムカムカする

ノット・ギルティ派

ある日、苦情がくる → 実はよく知らなかったけど、近年は避妊の必要性も感じている →でもノラへの施術の費用まで追いつかない → 追いやって、どこかで死ねというのか? → そもそも捨てる人間が悪いのに、餌やりを責めるのはおかしい!

…みたいなスパイラルがおこる(実際おきている)。えてして孤立するのは後者だ。
私個人は、こう思う。
“世の中に、お腹すかせてる猫に餌をあげる人がいたっていいじゃないか”
投げやりな気持ちじゃない。正直な気持ち。昔は街にのんびり歩く猫や犬がいても、やれやれ、と片づけたり、敷地が汚れてカリカリするような住民も少なく、大らかだったのに…と思うと寂しい。

「動物の間引きの歴史」を、我こそがいま『その苦痛を引き受けながら、やっています』と新聞に発表して世間を驚かせた女性作家さんもいたけど、「よくやった!」とは思えず不快なだけだった。

聞いた話では、ノラ自体が繁殖しても生存率は低く、やはりペットの捨て子のほうが深刻だという。
ならば、無責任に仔猫を生ませ、世話できないと捨てるような者のほうがよっぽど罪じゃじゃないかと思う。

もし「おかあさん、お庭にかわいそうな猫ちゃんがいるんだ、パンくずちょうだい」
と慈愛の芽生えた子供がいたら、大人は
「増えないためにも死んだ方がいいのよ、それが猫ちゃんのためなの」と応えるのだろうか。

…よく言うよ、と思う。
餌やりを罪ときめ、話し合うこともせず、行政に訴える人。
こんな人にかぎって、自宅の冷房の温度は1℃も上げようとしない。
ノラが増えたら困るのは、実は人間じゃないか。
野山を崩し、コンクリートで虫や草花を追いやり、衛生のため、美観のためにゴミ袋のヒモはしっかり閉める。「それで飢え死にしたからといってなんなのだ?どうせ動物の犠牲のうえに成り立っているのだから、餌付けなんて偽善者の自己満足だ」と思ってる。だいたい「ヒトの敷地」っていうけど、地球全土って、人間だけのもの?
自然の摂理(弱肉強食)で、私たちは動物の肉や植物の命を喰らって生きている。
でも、何事も「いきすぎ」は、「己の首をしめる」ことになるんだってこと…私にだって、わかる。
限られた資源を「今の利益」のためだけにむさぼれば、当然なくなるじゃん。
相手の生を尊重しなきゃ、なにもかも滅びるじゃん。

便利に慣れきった私だけど、そんなことも少しは…考えるように、なったのだ。
頭の中でめぐりつつ、こんな言い争いはしたくないなあ、と思った。

この世には、是非を決め込まないほうがいいこともある。
大事なのは、考えること…無知を装ったり、無知でいようとしないこと。
餌やりを控えるのも、避妊や去勢も、ちゃんと考えた上でのことでなきゃ、あまりにかなしい。

大島さんの「綿の国星」に、こんな野良猫のセリフがある。

「おい、草、おれはあんたの上を歩きたくないんだ」

そう言ったら草が消えるかよ。

あんた、そんなにえらいのかよ。

余裕がないのは、資源だけじゃない。心もだ。
自戒も含め、複雑な気持ちがうずまく。

good good

大島弓子さん。

私は、彼女の作品を愛してやまない。
彼女の漫画を、もう幼い頃から絵本がわりに読んでいた。…というのも、兄や姉がファンで、すでに本棚にあったから。感謝。

彼女が描くと、少女も、少年も、猫も、平等に「精神」の視点で登場する。
猫が人間の姿で出たり、痴呆のおじいちゃんが赤ちゃんの姿で登場したり、オジサンも、オバサンも、少年や少女の心のまま登場する。それが温かかったり、切なかったりする。

そして、彼女の作品で猫に愛着が湧いた、と言ってもいいくらい猫が出る。

猫と一緒に暮らしてみて、自分を「飼い主」とかソウルを「ペット」という目線で感じなくなった。自分をママだ、とも思わない。ゴハンを「餌」とも呼べなくなった。
ソウルに対して責任を持っている。けれど、感覚としては、相棒、くらいがしっくりくる。

ふと見ると、そこにソウルがいる。小ちゃい身体で、プクップクッと息をして、だまって待っていたり、我慢してそこにいたりする。帰れば出迎えてくれる。
猫を、人間の私の生活に付き合わせている。コトバがしゃべれないから、感じ取ってやりたいと思う。その相手が1匹なぶん、もはや意識的には対等な相棒なのだ。実際、私は精神的にずいぶんソウルに助けられている。

…そんな感覚が、彼女の作品にも現れている。
擬人化された猫の視点で、人間の愚かさや、もろさや、社会のひずみや、生の素晴らしさが描かれているように思う。
映像でも、古くは「四月怪談」、「金髪の草原」、「つるばらつるばら」は「メゾン・ド・ヒミコ」の原作、最新作は秋に公開の「グーグーだって猫である」など、ドラマや映画化されている。
その「グーグーだって猫である」の4巻が出ているのを発見。

2巻と3巻の間に5年もかかったのでまさかと思ったけど、本当にあった。映画化の影響か、1年足らずの新刊。
正直、これが映画化されるなんて驚いた。大島さんはいまだメディアにも紙面にもそのお姿をみせずどこかベールに包まれている(その大島さん役を演じるのは小泉今日子さん)。

大島作品といえば、これが代表作だと思う。

「綿の国星」。
猫アレルギーの人間の母親が、家出したチビ猫を暗闇の中で見つけ、「神様…感謝します」と触れるシーン。また、人間になれると信じていたチビ猫が、藪の中で老猫の死骸をみつけ、猫は猫のまま死んでゆくという現実を知るシーン。
日々成長していくチビ猫がかわいらしい。そして、生きる、ということそのものが非常にけなげであるということ…大人になって読んで、感動してまた泣けてしまった。

話を戻して、「グーグーだって猫である」ではかつてのチビ猫やサバのような、哲学色をおびたヒト型の猫は出てきませんが、とっても面白いのでおすすめです。
ご存知の方は多いと思います。でもまだの方は…ぜひ!

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