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おとうさん。

2009年12月31日、新年直前の大晦日の夕刻に、父が他界しました。

入浴中の急性心不全でした。

葬儀はひとまず7日に身内葬で終わりました。

父の顔を見るためにわざわざ身内葬に来てくれた友人、偶然に知ってご焼香に来てくれた仕事の関係者の方…その人たちには、本当に感謝でいっぱいです。

数日後に会社関係ほか対外的な告別式があるのですが、それが済むまでは片づけや先の話し合いもできないし、いま私は仕事を休んで祖母に付きっきり。

そんなことしてると惚けてしまいそうなので、ここに父のことを記しておこうと思いました。

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私は前日の30日に、下の記事をアップした矢先でした。

兄も私も、大晦日の大掃除やら買い出しやらで慌ただしくしているなか、几帳面な父は新年を前に、こざっぱり身支度を整えたかったのでしょう。

「お前たちは忙しいから、自分でゆっくりやるよ」そう言って、午後3時頃、一人でゆっくり入浴しました。

出てくるのが遅いので兄が覗くと、すでに浴槽でうなだれていました。

慌てて担ぎ出し、人工呼吸しながら救急車を呼びました。

心停止状態だったので、救急車に消防車など数台が来ました。

その後しばらくして市内の病院で死亡確認されました。

葬儀社の人は「4日過ぎまでは火葬所など何も取り決めできないから」と、遺体を霊安所へ保管することをすすめました。
けれど我が家にはとっても良い葬儀屋さんの知人がいたし、どうせしばらく葬儀できないのなら、なおさら…
そう思った私は、頑固に「家へ連れて帰る」と言いました。

その後はさっそく懇意の葬儀屋さんのSさんが来て、7日までのあいだ、毎日ドライアイスを交換にきてくれました。

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元々10年前から肺気腫を患い、近年は酸素チューブをつけた生活でした。

年々体力も弱り、体重も38㎏でしたが、それでも自分のことは自分でしていました。

10月には肺癌の疑いが持ち上がり、我が家もしばらく騒然としました。
長らく検査を繰り返し、薬の副作用でしばらく身体にダメージが続きました。

けれど、結果はなんと「良性」でした。

副作用も12月上旬には収まり、いよいよ新たな気持ちで家族みんなでお正月….

それなのに、結局は心臓麻痺だなんて、信じられませんでした。

今まで肺の弱い父に対して、兄も私も「風邪ひとつひかすまい」と日々細心の注意をし、気をつけていました。

なのに、なぜこの日、気づかなかったのか。
なぜ介助しなかったのか。

実は前の日、私は「入浴介助しようか」と訊ねました。
過去に一度だけ介助したことがあって、でもその時は父も気まずそうで、「いや、まだ一人で大丈夫」と言いました。

この日は気温も低く、掃除などで窓を開け放したりしてたことを考えると、やはり前もって浴室を暖めてあげれば良かったなど…

いまや、すべて仕方のないことです。

いえ、もう考えていないんですけど…回想していると、つい書いてしまいました。

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私は、よくケンカをしました。

それはやはり父を思う故でしたが、ついキツイ口調で接してしまったり、ストレスをぶつけてしまったことは、悔やみ切れません。

けれどせめて良かったのは、この数か月、車いすの父と二人仲良く通院できたことです。

外出してもすぐに帰りたがる父が、この通院のあいだだけは毎度「何か食べて帰ろう。」と病院のレストランに寄りたがりました。

二人で食事して、薬をもらって帰る。
それだけでしたが、お父さんは嬉しそうにしてくれました。

ところが、癌の疑いが晴れた翌日…私がノックして部屋をあけると、父が気持ちよさそうに煙草をふかしていました。

吸い込めむだけの肺の力はありませんので、ただふかして気分を味わっている様子でした。
しかも、私が御祝いに買ってきたウイスキイが、もう空になっている。

私は、父の癌の疑いが晴れて心底嬉しかったし、外出できない父には頑張ってリハビリして欲しかった。

なのに、まだ煙草をふかしている?!

….そう思うと私はカッと腹がたち、「そんなに早く死にたいなら癌になっちゃえばいいじゃない!」と叫んでしまいました。

せっかく仲良く通院した数ヶ月も、私の激怒でパアでした。

父は悲しそうな、申し訳なさそうな顔してました。

それが亡くなる1週間前です。

30日になるころは多少自然な会話をしましたが、それでも気まずい空気でした。

ギターを弾いてる私の後ろでそっとドアをあけ、「まだ起きてるのか?」と言いました。

私は無視しました。
そのあと戸をあけ、冷たい口調で「もう寝るから、し尿便、ちょうだい。取り替える。」と無愛想に処理し、父が「ありがとな」と言うのをまた無視して、ドアを締めました。

ただ31日は、父の好きなものを作り、お酒もこっそり用意して、父の大好きな雑煮をつくって、御祝いしようと考えていました。

それができないままの、お別れでした。

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私は偉そうに叱ってしまったけれど、父という人は、私たち子どもが逆立ちしても及ばないほど真面目で几帳面な人でした。

小さい会社ながら経営者である父の生活は、時計そのものでした。

もう何十年も前から、朝は毎朝4時に起床。夜は9時きっかりに就寝。
母が亡くなった日でさえ、このリズムを崩しませんでした。

唯一の楽しみが、ひとり書斎で味わう煙草とウイスキイ。
外では飲まず、夕食時に家族が揃わないと不満を漏らしました。
衣類や寝床のシーツの「ヨレ」さえも嫌がり、いつも服装はピシッとしていました。

亡くなる3日前に散髪に行っていましたし、机の引き出しの中には、孫たちへのお年玉、お寺への新年のお布施などが封筒に入って用意されていました。

会社は数年前より兄が継いでいました。

今年は最も売り上げの厳しい時で、社員にわずかなボーナスしか出せなかったことを気にかけていた父は、12月の半ばに自分の年金をおろして、ポケットマネーで社員に「心付け」を配っていた。

そして私にも、「会社を休ませてしまったから」と封筒に用意した小遣いを渡してくれた。

そんな父でした。

経営者になって50年ちかく、一人たりと社員の首を切りませんでした。
それによってみんなの給与が減ったし、もっとも減ったのが自分の収入でした。
母や兄は反対したけれど、父は頑固に社員の首だけは切らなかった。

それどころか、会社のお金に手をつけてしまった社員に、何度もチャンスを与えました。

この件に関しては、幼かった私も記憶があります。

そのおじさんは人当たりのいい感じで、まさかそんな事情があるとは思えなかった。
父は自宅にその人を呼び、私たち子どもを上へ追いやり、戸を閉めるといきなりその人を怒鳴りつけました。

私は隠れながら「あ、父がまた怒鳴ってる!ひどい!」と思いました。

父が若い頃は、本当に怖かったものです。

「勉強しろ」と言われた覚えはありません。
受験や進路などには一切口を出さず、「お前たちの人生はお前達で決めろ」でした。

ただ問題が起こるときは別です。
まるで経営者のように「ここだけは援助する。だがあとは自分で考えろ」と話を一方的につけるのでした。

私たち子どもは、ずっとそんな父を「横暴な人」と思っていました。

ところが後になって聴くと、その社員を怒鳴ったあとに、更正のチャンスを与え続けていたのです。

「女房子どものことを考えろ!馬鹿者!」そういっては許すこと数回。

やがてその人は父に顔向けできず、自分から去ってしまいました。

なんとも甘い…といえば甘い話で、父は周囲から非難されました。

「なぜ切らないんだ」「破産させればいいじゃないか」

役員たちに非難されると、父は
「アイツはいいとして、奥さんや子どもはどうするんですか?子どもまで路頭に迷えと言うんですか?ボクの決定したことですからね、とやかく言わないで下さい。」
そう言って、話を強引に終わらせるのでした。

そしてつい近年まで、その人の借金を肩代わりしていました。

また、こんなこともありました。

ある経営者が窮地に追い込まれ、父に泣いて「自分を信じてくれ」といって取引をした。
父は兄達の反対をよそに、仕事の前払いをした。
「いつか必ずお返しします」と言って、その人は「夜逃げ」してしまった。
大層な額ではなかったけれど、父は泣く泣く自分の年金から会社に支払いをしました。

もちろん、ただ騙されたわけでもありません。

10年ほど前、やはり同業の社長さんに泣きつかれて保証人になった。
その会社は潰れ、社長さんは自殺してしまった。

すると父は、母に支払う予定だった退職金を含めて、ひと息に全額返済したのです。

これには銀行が驚きました。

そのことによって会社は銀行から多大な信用を受け、会社が窮地のとき多額の融資をしてくれました。

ただ、泣きべそかいたのは、母でした。

他の社員には必ず退職金を渡していたのに、妻である上に、一番父に叱られていた母は、楽しみにしていた退職金を犠牲にされたのです。

私たちはさすがに父を責めました。

けれど母は「まったくお父さんには腹が立つわ!でもね…社員のこと思えば、お父さんは正しかったのよ」と庇う。
なので、私たちもそれ以上は父を責めませんでした。

父はそうやって、融資を受けても必ず期日前に返済するので、銀行からの厚い信頼がありました。

「6時には会社も閉めちゃうし、愛想のない社長さんだけどねえ。信用できる人だったよ」と言われました。
…..そんなわけで父自身も、我が家も、さほどの財産も残っていないのです。

それでも子ども達は好き勝手させてもらえたし、私は、そんな父が大好きでした。

なにより、尊敬していました。

たったいちどだけ、私が主演した芝居を観に来てくれたことがありました。

終演後、待っていたのは母と祖母だけでした。

「お父さんは?」と聴くと、

「お父さん、あんたが登場した途端に目をつむってしまってね…ろくに鑑賞できなかったのよ。それで終わったら、そそくさと帰っちゃったわよ」と言う。

私もそんな父に負担をかけたくないので、その後は自分の活動など一切報告しませんでした。

けれど遺品をみると、私のポスターや、NHKラジオのリポーターの本番を録音したテープが、引き出しの中に保管されていました。

いま思えば、煙草やウイスキイくらい好きなだけけやらせてあげればよかった。

身体も思うように動けず、さぞ悔しい思いをしていたに違いない…

そう思うときは、いつも遅いのですね。

———————–

和尚さんは、母の葬儀で知り合って以来、父があしげく挨拶に出向いていたので、訃報を聞くやいなや我が家へ来て父にお経をあげてくださいました。

打ち合わせなどは後日なのに、夜に飛んできてくれたのです。

この人間味あふれる和尚さまと父は、とても相性が良かったのです。

「どんなお父さんでしたか?」

私たちは、照れくさくてうまく言えませんでした。

けれど葬儀の日、和尚さんはこう話した。

「お父様は几帳面で、また大変なロマンチストでした。
お母様を愛し、人をとことん信じました。
また書斎をみてわかるように、文学青年でしたね。
この家のトイレに毎月飾ってある俳句、みましたか?
ちゃんと新年の句に、取り替えてありましたよ。」

そうして、「慈心院環道利庭居師」という戒名を授けてくださった。

ちなみに母は「慈光院春窓貞道大姉」。

まさに小春日和のような、ふんわりした母にぴったりの名だったので、父が喜んだものでした。

その父を10年間眺めていた和尚さんは、母の「道子」と父の「利彦」の一字を並べてくださった。

父は、満足しているのじゃないかと思う。

散髪もすませ、お風呂の中で気持ちよさそうなお顔をしていたし、家の中で息を引き取り、私たちに何一つ手を患わせなかった。

7日間は我が家で安置したので、私たちも寝ている父となが〜いお通夜を共に過ごした気分で、だんだん悲しみが静まっていきました。

そして叔父の友人の葬儀屋さん(Sさん)には、最も感謝しています。

「お父様は家庭人だったから、まず身内葬をしましょう。でも経営者だったから、後日セレモニーホールで告別式をしましょう。なに、無駄を省けば、両方あわせても一般的な一度の葬儀の分とおなじ料金に収めて見せますよ」

と言った具合で、低料金ながらとてもあったかい、花だらけの立派な葬儀ができました。

おばあちゃんは、まだ心配ですが….それはまた、後日ここに記し残したいと思います。

いまも私は、父が「おい」と私の名を呼ぶ声が聞こえています。
あのときはうっとおしくもありましたが、父にこれだけは伝えたかったです。

「たとえ寝たきりになろうと、私たちはお父さんに居て欲しかったよ。
でもお母さんが亡くなったあとに10年もよく頑張ったね。
ゆっくり、天国で煙草とウイスキイを味わいながら、お母さんと詩集を読んだり、絵を描いたりしてね。」
新年もだいぶ過ぎてしまいましたが、みなさん今年もどうぞ、よろしくお願い致します。

Comments:2

さのさ 10-02-11 (木) 14:13

お父さんがお亡くなりになられたんですね、お悔みを申しあげます。私は昨年の11月に父の一周忌を終えました。思いがけずこうしたブログに出合い、私も父のことや周りのことなどが浮かんできます。

いまはayuさんのブログを少しづづ拾い読みをしてみようかなと思っています

ayu 10-02-12 (金) 21:18

温かいお言葉ありがとうございます。
さのさサンも、一周忌を終えたばかりなのですね。
きっと、想い出になるにはまだ早いのでしょうね。
私はまだ実感すらわいていません。
けど何か大事なものを胸に抱いて、よりいっそう前に進んでいきましょうね!

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